虎哉和尚と東光寺

虎哉(こさい)和尚と東光寺

揖斐の町並みを抜け、岐阜県立揖斐高校の前の谷汲街道を400メートルほど北上いたしますと、右手の山腹に西美濃三十三観音霊場、東海四十九薬師霊場の札所で、乳薬師として知られている医王山東光寺が見えてまいります。昭和六十二年に大変好評を博した大河ドラマ「独眼竜政宗」に登場いたしました「虎哉」和尚がこの東光寺にご縁があることをご存知でしたでしょうか。
山門をくぐって本堂の前庭に立ちますと、高さ1メートルほどの黒い石に「虎哉和尚得度の寺」と刻まれた石碑が目にはいります。
ドラマに出てまいりました虎哉和尚は岐阜美濃出身であり東光寺で得度し、僧として修行を始められたのでした。

福地寅千代という少年

虎哉和尚は今を遡ること490年(1530年)現在の岐阜市下西郷の福地という姓の家に生まれ、幼名は寅千代といいました。幼少の頃から抜群の利発さを発揮し、周りの大人達を驚かせたのでした。特に驚嘆させたのは、隣接していた善応寺(現存)から朝夕聞こえてくる経文をすべて覚えてしまったということでした。そのころ、この地方に名を馳せていた名僧で後に武田信玄の師として山梨の長禅寺に赴かれた岐秀玄伯和尚が東光寺の第三代目の住職でありました。寅千代の父親は是非この和尚のもとで学問をさせようと東光寺へ連れてまいりました。寅千代少年十一歳の時でありました。

東光寺にて
岐秀のもとで得度 僧名を宗乙(そういつ)

東光寺では、岐秀和尚のもとへ全国から修行僧が集まり、修行しておりました。折しも播州の僧、禅甲が来寺しておられ、岐秀和尚に拝謁し、問答をかわしておられたのでした。その様子をみて深く感動し、奮然自ら立って僧になる決心をされたのでした。そして、岐秀和尚のもとで得度をし、僧名宗乙(そういつ)と改め、自ら苦行の道を選ばれたのでした。時に十三歳。修行僧宗乙はますます学問にも磨きがかかり十六歳にて全国行脚に出、あちらこちら歴参し、甲府の「心頭滅却すれば・・・」で有名な恵林寺の快川和尚にも法を問うたのでした。その後また行脚に出かけられましたが、天文二十三年(1554)、当時、武田信玄の母大井夫人に招聘されて甲府の長禅寺におられた東光寺での最初の師匠岐秀和尚の認可を受け二十五歳にて道号を「虎哉」と称されました。それ以後が虎哉宗乙和尚ということになるのです。

東北(東昌寺) 京都(妙心寺) 岐阜等歴訪

三十二歳にして師匠岐秀和尚の印下を得て、奥羽は米沢の東昌寺に住職として居住し、又戻って、岐阜の瑞龍寺、本巣の円照寺、京都妙心寺の住職もされました。その間に師匠岐秀和尚の遷化を知り、揖斐東光寺にて大宗、岐秀和尚の画像に賛をされておられます(東光寺寺宝)。その後東光寺と円照寺を行き来され正に東奔西走、席の温まる時がないほど活躍されました。

伊達藩とのつながり

時の伊達家当主輝宗公は、常日頃後継者である我が子梵天丸が立派な武将になることを切に願っておられました。そのための良き教育者をさがしていたところ、虎哉和尚の風評が耳にはいりました。輝宗公は早速礼を尽くして和尚を米沢の資福寺の第十二代目住職に礼聘し、梵天丸の師父として伊達藩に迎え入れたのでした。梵天丸、後の政宗公六歳、虎哉和尚四十三歳でした。虎哉和尚はそれ以来輝宗公死去まで十年以上住職。その間禅風おおいに振るい、資福寺の中興と称せられました。
梵天丸は虎哉和尚の薫陶を受け、文武両道に秀でた武将になりました。特に虎哉和尚の「臍曲がり教育」は巧を奏し、テレビ「独眼竜政宗」の中でも梵天丸の頬を思いっきりつねって「痛いか」「痛とうございます」「痛い時には痛くないといえ」という下りは今も目に浮かびます。政宗公は常日頃「己れ独りを頼みとせよ」との和尚の教訓で数々の逆境に強い武将であったといわれております。
天正十三年に父輝宗公は難に遭い、非業の最期を遂げました。政宗公はその菩提を弔うために奥州は米沢に寺を建立し、遠山覚範寺と称し虎哉和尚を開山に迎えました。その後奥州岩出山、仙台と行き先々で、従来あった寺を覚範寺と称し虎哉和尚を生涯の師と仰ぎ住職に招聘したのでした。
その間にも虎哉和尚は千里を駆け巡って活躍されており、世間では天下の虎哉和尚及び大蟲和尚を二大禅翁と称し、この二翁に参じておらぬ者は未だ行脚の具眼者とは言えぬとされていました。

遷化

虎哉和尚は高齢八十歳になって再び歯が生えてきたといわれています。これは瑞歯(みずば)といわれるものですが、今でもそういう事例はあるそうです。
慶長十六年(1611)五月八日 世寿八十二歳で遷化されました。今から409年前のことでした。大本山妙心寺から佛海慈雲禅師と勅諡(おくりな)をいただかれました。
遺言として「我が死後木像を作成したり墓など絶対造るでない。それに背くものは我が弟子ではない」と。現在画像としては本巣の円照寺に一幅あるのみときいております。禅寺としては開山様の木像をお祀りするのが当たり前ですが、かって仙台覚範寺にあった木像も焼失しております。
直筆の古文書は数少なく、東光寺の画像の賛の「一得一失」が貴重な資料です。
多くの偈を認められた「斑寅集(はんいんしゅう)」も直筆ではなく後世の和尚が書き直した物が残っています。また文章としては松島の瑞巌寺の本堂に掲げられています瑞巌寺造営由緒記「松島方丈記」が有名です。

「松島方丈記」
夫れ松島は、日本第一の佳境なり。四囲皆山なり。山間皆海なり。
水光瀲艶として疑うらくは是大湖三万六千頃かと。
山色清浄にして望めば即ち波心七十二峰、青海中数百島與。
山畔頗る多くの人家あり、奇石・怪松・茂林・脩竹その風景なり。
愛すべし、楽しむべし、まことに天下の霊地なり。
昔は本朝相模の平将軍・時頼、円福の大道場をこの地に創り、
法身和尚を拝請し、開山の祖師と為す。
蓋し和尚は、遙かに海を航し宋朝に入り、
径山無準和尚の宗風を続得し本朝に帰る。輝騰古今の名○なり。
然ると雖も與麽年代深遠にして、佛宇僧廬ことごとく廃壊す。
目に入るは荒榛破礎頽垣のみ。
いまや、本州の大守、山陰中納言の後裔・伊達少将藤原政宗朝臣、
紀州熊野山より、その材を取り、円福の廃禅刹を改め、瑞岩の大伽藍を営む、堅く吾派尊宿海晏和尚を請い、本寺を住持す。
専ら国泰く、民安らかなることを祈るものなり。
伏して惟う。藤原政宗公、王家の柱礎諸社を金湯ならしむるため、
殺活時に臨んで陳きを排し、高祖三尺の剣を提げて功名世に蓋う。
国を治むるに逍晋半部の論を用う。
こいねがう所は、扶桑六十州を掌中に帰し。大椿八千才を身裡に保つことなり。
慶長十有五才。上章す。
奄茂孟陬月の立春日。
釈氏六十八世、再住妙心 現住覚範 虎哉宗乙老納記す

参考文献
神田美一著 「虎哉」
伊達篤郎著 「虎哉」